ああう

 新刊を買ってないのです。

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

 いや、そもそも旧巻が早くも品切れですよ。
 
 今日は言わずもがなのお話を。
 
 1周しちゃってるとか、2周してるとかのお話です。
 
 私がよくとりあげる『アンブレイカブル』『サイン』などのシャマラン作品は、私の意見では(かなりの確信がありますが)視聴者の一歩先で、視聴者のレベルをちょっと高く見積もったせいで十分に持ち味が伝わってない作品なのです。すごいように見せてる「だけ」じゃん と、言ってる人は大概間違ってるというのが私の意見。
 ジーン・ウルフはこの点、誤解のしようがなく、誰が見てもすごい。誰が見てもすごくて、わかりづらいけど、ちゃんと「これしかない」という正解が用意してあって、「読者のレベルを高く見積もりすぎて」書いてあります。
 ニール・ゲイマンは「だから、読者なんてそんなものだし、売れて読まれなきゃ意味ないでしょう」「若い時分は、マニアックなのを書いたけど、あれで”読者”ってもんが分かったよ」という感じで、余裕をもって、傑作を書いてます。
 森博嗣の場合はというと、わりとニール・ゲイマンに近くて、こういう市場があって、こう書くとこういう反応がある。だから、こう書いておく。という感じ。上にあげた作家に比べると、もっとも「批判した人がかえって恥をかく」確率が高い周到な、というか戦略性の高い作家という感じがします。
 
 そこで、円城 塔なのですが、これが、これらのどれとも微妙に違って、もっとも「すごいことが書かれてることだけは感じられる」感が高いのです。
 
 いまさら、「著述者が犯人」では読者を驚かすことができない。かといって、その先を行き過ぎては・・・というのが、現代ミステリの抱えている問題なのだと思うのですが、なかなか・・・。
 
 
 漫画の『Q.E.D』を見てると、でも、直球もまだまだだという確認がもてるのですが・・・。
 
 というのを、同人誌クリティカでしたか、あれの 法月&瀬名のインタビュー記事を読んでて思ったのですが、もっとアヴラム・デイヴィウッドスンとジーン・ウルフについて突っ込んで話そうよ とも思いましたよ。