ジーン・ウルフのこと

 ここには、ミステリ好きな方も来るので、それを前提で書きます。
 
 例えば、某ミステリでこういう表現・トリックがあります。
 カレンダーに近寄って、日付を確認する → その人物は近視である。
 
 ジーン・ウルフの場合は

 (略)加えてヴァーナー・ヴィンジの今にもボロボロに崩れそうな短編集が、私の思うところでは、はるか昔に死んだ図書館員が背の薄れかけた「V.Vinge」の文字を「Winge」と読み間違ったために置かれていた。
 結局父が書いた本は見つからなかったが、(略)

 この後もけして言及され、明かされることはないのですが、これで父の名がウルフであることは確定なのです。前後の文章でフルネームがジーン・ウルフであることも自明とされる。
 この調子なんです、全編。
 
 大森望氏が言ってたと思うのですが、「読者の読解力を高く見積もりすぎ」+「意味深な文章はすべてなんらかの意図があって書かれていると思え」なので、つらすぎて楽しいのです。
 
 で、この作者が書いた4部作(実は5部作)『新しい太陽の書』が20年ぶりくらいに完結するのですが、ファイナルファンタジーで有名な天野画伯の、しかも絶頂期のイラストが、『ヒカルの碁』『デスノート』の人のイラストに差し換えられて新装版で刊行されるのです。
 こういっちゃあなんですが、サイボーグなおじいちゃんも、アラビアンナイトも、ドラゴンの漫画も全話とは言いませんが、ひととおり読みました。
 ファンです。
 でも。
 
 でーもー。
 
 納得いかないのです。
 
 『新しい太陽の書』は、拷問者組合に所属する青年セヴェリアンが黒よりも暗い煤色の衣を身にまとい、罪人の首を落とすための剣をさげて、旅するファンタジー と見せかけたSFなのです。ファンタジーとしても読めてしまいますが、けして記憶を失うことのない主人公が少ない語彙で語っていることを
 すべて
 察して
 読まなければいけないのです。
 
 私だって、話の中身はぜんっぜん、判りませんよ。
 でも、どーっと流れてる滝のすごさを表現できない人間であっても、体感はできるでしょ。そういうめまいは楽しいでしょ。20年は待ったでしょ。
 
 ・・・それなのに、あのイラストなんです。あれに変わっちゃうのです。
 2chで愚痴をこぼす人はもてないメガネの人で、ワンフェスでルイズのフィギュアを買うようなやからかもしれません。でも、その悲しみは私にもわかるのです。
 早川の事情もわかるし、こっちのほうが売れて、世のため人のためだと、わかるのですが。
 
 ”判る”と”納得する”の違いを述べよ(15点)、なのです。