彼らはやってくる

 トウモロコシ畑で男は奇妙なものを見聞きするようになる。
 気のせいかと思っていたが、徐々にその兆候ははっきりと形をとるようになる。
 男は、不審がる家族の目を無視して、”それ”に対処することを決意する。
 
 そして、準備を整えた男とその家族の前に、彼らはやってきた・・・。
 
 これは、その男が事件を通して、失ったものを取り戻し、復活する話である・・・。
 
 というのは、『フィールド・オブ・ドリームス』のあらすじではなくてシャマラン監督の『サイン』のあらすじです。
 ちょっと、ネタバレ気味に。
 
 『サイン』という映画はトンデモ映画のように語られることが多いのですが、ひとつひとつに明確な意味とメッセージがこめられていると思います。
 一見して分かるのは、信仰を失った男が、事件を通して家族を守り、信仰を取り戻す話であるということ(私にはこの「信仰」というのがいまいち実感として感じ取れないのですが、それはそれとして。)。ですから、信仰を持たない侵入者が水に弱いというのは、かなり露骨な聖水の暗喩になってます。
 バットで撃退するシーンは、そこで、バットを持ち出すということで失笑を買いかねないのですが、『FOD』を踏まえたシャマラン流のリメイクだという視点で見ると、「信仰」「父との絆」「自分」を取り戻すシーンなので、バット以外の選択肢はないはずです。
 
 自分の戦い(サイン)=キャッチボール(FOD)で、世界各地での戦い(サイン)=テレビ中継されるようになったプロ野球(FOD)と、とれます。
 
 なぜ、シャマランが『FOD』のリメイクを作ったのか。なぜ、父との対話でなく、家族愛の話に変えたのか。なぜ、野球場を作るのでなく、防御を固める話にしたのか。
 というのは、視聴者にゆだねられていて、明確な説明はありません。
 
 で、私はどう見たか という話になるのですが、ハリウッドの法則で粗製濫造される「原作付」「リメイク」映画への批判と、見ました。
 シャマランは、前作『アンブレイカブル』で史上最高額の脚本料を手にしましたが、これにはあまり好意的でないコメントがよせられました(私はそれだけの価値がある脚本だと思います。)。でもね、とシャマランは言いたかったのでは。
「でもね、原作をそのまま映像に置き換えただけ とか リメイク とか言って、舞台を現代に移しただけの脚本で、脚本料をもらってるプロがいるんです。でも、あれとかあれとかは、志も中身もプロの仕事じゃないでしょ」
と言いたかったのでは。